2011.06.21

津波直後



6月21日(火)

津波直後停電、水道は止まる、固定電話も携帯電話もつながらない状態。
私たちにとっての、どこでどれだけの被災状況なのかの情報源はラジオだけでした。

家では普段使っていない電池式のラジオを妻が見つけてきて、
それから情報を得ていました。


津波があったとき、妻が無事かどうかを知りたくて携帯電話をかけようとしても
まったくつながりませんでした。

携帯電話としての役割をもっとも果たして欲しいときに、
使えないことにとてもいらだちました。

連絡さえつければ無事であることがわかるのに、
連絡がつかないために不安や心配がとても大きくなりました。


電気がないため、夜は暗闇です。
誕生ケーキについてくるわずかなローソクで
細々としたあかりのなかで食事を取ったものです。


私のところでは、災害時の備えをまったくしていませんでした。

電灯はあっても電池がなくて使えなかったり、
ローソクもありませんでした。


夜は、早めに寝るようにしていました。
余震が頻繁に遭ったため、いつでも起きだせるように服は着たままで寝ていました。


私はベッドに寝ていたのですが、
妻は怖がって茶の間に床を敷いて別々に寝ていました。

しかし、そのうち私も茶の間に一緒に寝るようにしました。
(一緒に寝るようにして3日目の夜、妻は中国へと旅たってしまいました)


水は、車で数分のところにある沢水を汲んできて使っていました。
食べた後の食器を洗うときに、
限られた水を無駄にしないようにと神経を使いました。

洗濯は、沢水の近くの小川でしていました。


いま思うと、よく過ごしたなと思います。
それもこれも妻と一緒だったから過ごせたんだと思います。


妻が帰って一人になってからは、
とても心細く、淋しかったです。



最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
あなた様が幸せでありますように。
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タグ:津波
2011.06.08

妻を中国に帰す直前のドラマ



妻は、3月2日に日本に戻り
3月20日に中国へ帰りました。

再入国の期限が迫っていたことから
期限の更新手続きをするために帰ってきたのです。

そのため、今回は初めから2,3週間の滞在の予定だったのです。
飛行機のチケットもそれに合わせて取ってきました。


この滞在中に11日の大津波にあってしまいました。

私は、この津波によって妻を期限内に中国へ帰せるだろうかと
内心不安が大きくなっていました。

津波によって交通網が寸断され、
新潟空港までどうやって送れるだろうか。
手元に現金はあまりなく、
あてにしていた給料も津波によって支払いがストップしていたのです。

固定電話はもちろんのこと携帯電話もつかえない。
停電でテレビも見れないといったことから外からの情報が途絶えていました。

17日になって携帯電話が少しはつながるようになりました。

17日の夕方、妻が東京の弟のところに電話をしました。
そのとき、中国の両親が福島の原発のこともあってとても心配をしている。
大勢の中国人が日本から帰ってきている。
いまなら中国大使館で飛行場まで無料のバスをだして、
優先的に飛行機に乗れるようにしている。
それなのになぜ帰らないのかといっているというのです。

しかし、そうした情報が私たちのところへはまったく入っていなかったのです。
(妻が帰った後になってわかったのですが、中国大使館となったバスが数台大船渡に
来ていたのだそうです。)

無料バスのことや優先的に飛行機に乗れるということをどこから
聞いたらいいのだろうと思いました。


私は、中国大使館に聞いたらいいのではといったものの
電話番号がわかりませんでした。
インターネットも使えず調べる方法がなかったのです。

そんなときに、このブログを通して知り合った「ハルピン家庭料理店」の
ブログオーナーのことが思い浮かび電話をしました。

オーナーの奥さんが領事館に電話をしてくれて、
領事館から妻のところに折り返し電話があるからということでした。

そして、領事館から電話がかかってきました。
担当の方がいうには、「明日の12時に盛岡駅西口に来てください。
そこからバスが出ますから。これが最後のバスになります」とのこと。

『明日!? 車で送りたくとも盛岡まで行くガソリンがない。
盛岡までのバスも走っていない。一体どうやって盛岡まで送り届けることができるだろうか』
と無理な事のように思えました。

でも、『大使館で出すバスは明日が最後というから
なんとしても盛岡へ行かせなくては・・・・どうすればいいんだ』と考えました。

実は、この日のお昼過ぎに
友人がガソリンを10ℓ持ってきてくれたのです。

車には10ℓのガソリンは入っている。

水沢に嫁いできている妻の友人に電話をしてみたはと妻にいいました。
電話をしたら、「明日娘を盛岡に連れて行くよ」ということだったので
それに一緒に乗せて欲しいとお願いをしました。

友人は、快く引き受けてくれました。

ただ、水沢まで送っていくにもガソリンが足りない。

「とても申し訳ないけれど、途中まで迎えに来てもらえませんか」
とさらなるお願いをしたところ、これも快諾してくれました。

こうして、急遽妻は中国へ帰ることになり
支度をして夜7時に家を出ました。

住田高校前で合流し、友人夫婦の車に乗り換えさせて
妻と別れました。


妻は、新潟について三日後の飛行機で中国に帰りました。

慌ただしい別れでした。
妻と別れて家に戻ってみると、
そこにはついさっきまで妻がいた痕跡が残っていました。


とても淋しかったです。
でも、無事に帰すことが出来てとても安堵しました。

弟に電話してから、わずか2時間あまりで中国に返れる手はずが出来のは
奇跡だと思っています。

でも、それはいろいろな人の助けがあったからこそ出来たのです。
本当に感謝です。



最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
みなさんが幸せでありますように。
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2011.06.07

信じがたい惨状



3月12日私と妻は、警察署の前で再会することができました。

私を探そうとする妻を見かねて儀姉や親戚の叔父さん、その息子が
一緒に暗いトンネルを通って来てくれたことに、心から感謝しました。


みんなと一緒になった私たちは、家へと帰り道を歩き出しました。

帰るときは三鉄の線路沿いではなく、
仕事場にいつも通う道路にしました。

道路といっても、そこは泥や冷蔵庫から流されたであろう大量の魚や丸太、
横転した車などなどまともに歩ける状態ではありませんでした。

周囲の状況から、想像を絶する大津波だったことがわかりました。

太平洋セメントの工場をまたいで走る県道は、
筆舌しがたいほどの悲惨な状況になっていました。


帰る途中に目にした光景は、
病院の最上階から眺めたときには想像もつかないものでした。
家々は流され、どこに何があったのかまったく思い出せないほどに
遠くまで見渡せるようになっていました。

まるで、巨大な映画のセットの中にいるような感じで、
現実のこととして受け止めることができませんでした。

そして、私の住む地域に入ったとき、
ここでも惨憺たる光景が広がっていました。

流されて跡形もなくなった屋敷や、
形は留めてはいるがいたるところが壊れている家、
道をふさぐように粉々になった家屋、
3台の車がまるでミニカーを積み重ねたように重なっている光景
川に落ちている何台もの車、
壊れて歯が欠けたようになった堤防、

私は、こうした参上に我が家が大丈夫だということが
にわかに信じがたくなりました。


家にたどり着いて、我が家が無事だったことをあらためて確認できました。

しかし、我が家の無事を手放しでは喜べませんでした。
あまりにも多くの家が被災してしまったのですから。



私は、妻に「隣町(陸前高田市)の友達に会いに行かなかったのか」と聞きました。

妻は、「いつもなら私が行くんだけど、昨日は友達が我が家に来てくれたの。
そして、友達が帰ってから40分くらいしてから津波がきたの。多分友達は大丈夫だと思う」
といいました。


妻や我が家が無事だったことに心から安堵し、
なにものかにただただ感謝しました。



conv0015.jpg
左の2階建ての家の2階部分の窓のすぐ下まで水に浸かってしまいした。
壁の色の違いでわかるかと思います。
我が家は、青い屋根の物置のあるところです。
水は、庭すれすれの高さまできたそうです。

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最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
生かされていることに感謝。
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2011.06.06

3月12日大津波の翌日



3月11日の夜は一睡もできずに夜を明かしました。

病院の最上階まで上がって、窓から自宅方向を眺めてみたのですが
状況はわかりませんでした。

私は、家に帰りたいと思い歩いて行こうとしたら、
従兄弟が車で行けるところまで乗せて行くといってくれました。

そこで、車で行ったのですが、
目にする周囲の景色はあまりにも変わり果てたものでした。

途中まで行ったのですが、消防団の方にこれ以上は危険なのでいけないと
止められてしまいました。

また、この日は余震が頻繁に起こっていて、
また津波警報が出されるなどして通行止めされていました。

仕方なく病院の駐車場まで引き返しました。

病院の駐車場には多くの人たちが避難していました。
職場のスタッフの何人かとも会い、スタッフの無事が確認できました。


携帯電話は依然としてつながらず、
妻の安否がわからないままでした。

午後になって会った知り合いが、
三陸鉄道の線路を歩いてここまで来た人がいると教えてくれました。
この線路を歩いていくためには、トンネルをくぐらなければなりません。
来た人は、真っ暗な中をしばらく歩いたといっているようでした。

列車でくぐるときは、わずか数分なのですが
歩いてとなると、結構距離があるのでしょう。


私は、歩いて帰ることにしました。

病院から下っていき大船渡警察署のところまで行ったときに、
私の地域のひと数人と出会いました。

やはり線路づたいにトンネルを潜り抜けて来たのだそうです。
私と会ったときは、戻るところで警察署前で誰かと待ち合わせていたのです。

私は、彼らと一緒に帰ろうとそこで立ち止まっていました。

彼らから地域の被災状況を聞いたのですが、
私にはピンと来ず想像ができませんでした。


さて出発しようと歩き出してまもなくのことでした。


こちらに向かってくる妻の姿が見えてきたのです。


妻は、儀姉と親戚の小父さん、その息子の4人で
暗いトンネルを潜り抜けて私を探しに来たのでした。


妻は、私のことが心配で一人で探しに来ようと、
はじめは自転車で途中まで来たのだそうです。
しかし、途中から前に進めず戻ったところ、
儀姉や親戚の小父さんや息子が一緒に探しに来てくれたのだそうです。

途中まで車で来て、後は線路づたいに歩いてきたところ
私とちょうどよく会えたのです。


私たちは、互いの無事を知り抱き合いました。
妻は泣いていました。

そして、我が家は無事だったと知りました。



今晩はここまでとします。



最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
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2011.06.05

3月11日大津波



つぶやきです。

今日、インタネットがつながりました。

3月10日以来の更新になります。


3月11日 妻が隣町の友達と会う日になっていました。
そのため、私は妻に職場まで送ってもらいました。

職場に行く途中、なぜかチリ地震津波のときの津波の高さを表示している標識が
目に留まりました。
普段は気にも留めていなかったのに。


そして、午後大地震が起きました。

それからどのくらいしてからでしょう、
『大津波警報』を知らせる防災無線がなりました。


私は、津波は私たちの事務所までは来ないだろうと思いました。
チリ地震津波を経験しているのでそう思ったのです。

スタッフが、みんな避難したのを確認してから、
私は念のために高台に避難しようと歩いて事務所をあとにしました。

事務所から県道に出るまでの間に、2箇所の踏切を越えなくてはなりません。

私が歩いていくと、近くの会社の従業員の方たちも大勢避難を始めていました。
そして、二つ目の踏み切りに来たとき、
遮断機が折りていました。

列車が来るのだろうと立ち止まっていたのですが、
列車は来ることもなく遮断機だけが降りたままだったのです。

そのうち、誰かが「波がそこまで来ている」と叫びました。

私たちは、急いで遮断機を押し上げ、走って道路を横断し
国道沿いにある市民文化会館を目指しました。
後ろを振り向く余裕などありませんでした。

そして、市民文化会館上の駐車場まで登ってから
事務所がある方向を見ました。
(この場所からは、事務所を見ることはできない)

そうしたら、あたりの様子から1階部分を飲み込んだであろうと思われる
どす黒い水の塊が目に入ってきました。


チリ地震津波からは想像もできないほど巨大な津波だったのです。

私は、さらに高台にある県立病院まで上がって行きました。

津波が溢れんばかりに川を逆流して登っていました。

あたりはすっかり津波に飲み込まれていました。



妻は無事なのだろうかと携帯電話をかけてもまったくつながらず、
その安否が確認できないことにいらだちました。


隣町が壊滅的な被害にあっているというニュースに、
私は、妻のことが心配でなりませんでした。

これまで隣町の友達と会うときは、
妻が隣町のショッピングセンターまで行っていたからです。

もしもここに行っていたらと思うと
心配で心配でなりませんでした。


そして、11日の夜は、叔父の家族とともに
病院の駐車場に止めた車の中で過ごしました。

一睡もできませんでした。



今日はここまでにします。




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タグ:津波
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